2011年3月30日水曜日

福島からの避難所生活の親戚、その後

越谷市の老人福祉センターに被災していた親戚が、越谷市のご配慮で民間の家屋に引越しできることになり、決定したそうだ。
よかったよかった。
従姉妹は「しばらくはこっちでお世話になる。」と妻に語ったそうだが、その「しばらく」は年単位になるだろうと思う。



避難所からの引越しを控えて、まずは、布団を買うそうで、明日は他の場所に避難している一族が集まるそうだ。

何という結束力のある一族だ。

2011年3月29日火曜日

Facebook解除

どうでもいい情報と知りたくもない情報と見たくもない知り合いの顔が否が応にも表示されるので、もうやめることにしました。

Twitterの良さと便利さはよく分かります。

でもFacebook、分からない。

多分、こちらのアタマが悪いのでしょう。

3月26日と29日の新町田市役所の様子

3月26日はこんな感じであった。
少しづつ建築が進んでいる感じだ。



で、今日29日である。
なんと、僅か2日間しか立っていないのに、手前に巨大な鉄の建築物が!
むむむ。
興奮して次男に話すと、「あれっ?知らなかった?」である。
これだよ。。。

ますます目が離せん。

故郷

今日は妻の誕生日だ。
おめでとう。
産んでくださったお母様に感謝だ。



妻が、(一連の福島原発の新聞記事やTVの報道を見て)「もう、戻れないなぁ。帰るところが無くなっちゃったなぁ。」とぽつんとつぶやいた。

妻が、ぼんやりと抹茶のロールケーキを口に運ぶ。。。

越谷に避難している親戚のその後

越谷市が避難所の福島県民に、優先的に民間の家屋を提供します、とのことで家族会議の末、とにかく申し込むことにしたそうだ。

学校、旦那の仕事(通勤)など、課題は山積みだが、一歩前進だ。

何でも手伝うぞ!

2011年3月28日月曜日

3月11日震災直後の福島県海岸近くの子供たちの

福島県の広野町・富岡町・楢葉町・大熊町から浪江町に続く国道といえば6号線だ。
もう20年近く、毎年のように夏(時に秋・冬・春)に訪れていた。

今回の震災で避難している大熊町の、妻の従姉妹に妻が聞いた話。



あの日、6号線近くの小学校では地震で小学校の窓がことごとく割れてしまい学校に留まらせておくほうが危険と判断し、子供たちを「急ぎ帰宅するように!」とのことで、一斉に下校させたのだそうだ。
子供の帰る家は、バラバラだが、「津波の向かって来る方向にひた走る」子供も大勢いたそうだ。
無念だ。
言葉もない。



どこにも報道されていないようだが、大熊町や浪江の近辺を走る消防車にかなりの数の遺体が乗せられて走っているそうだ。
本来消防車には遺体は乗せない。
今はそんな事言っていられない。

子供と親が一緒に亡くなっている場合、ほとんどが「子どもが下」にいるそうだ。
絶望的な津波の水から子供をかばおうとしたのだろう。
涙が止まらない。。。。

「ちゃんと生きなきゃ」、と強く思う。
「生き残った方々に何かしなきゃ」と強く思う。

2011年3月26日土曜日

3月24日に被災者の叔父が福島にコメを取りに戻った件

越谷の老人福祉センターの避難している親戚一同の中に独身の叔父がいる。
大工さんだ。
60前で非常に元気である。
数年前には、その腕を買われてアメリカに渡り、山の中にログハウスを建ててきた。

地震の当日は海(というより川)の近くの自宅の二階でローソク一本で一晩過ごし、翌日朝に避難の旅を始めた強者である。
目の前で田んぼが海からの水でダーッと浸水するさまも見たそうだ。



でその叔父だが、広野に住む別の親戚の叔父(こちらは総勢十数名で川口に移住中)と共に、何とトラックで福島に戻り、コメと自分の大工道具を持ち帰ったそうだ。
まず広野に行き、事情を話し、楢葉に入ったそうだが、人・車が全然なくすいすいと自分の家に戻れたそうだ。
ちなみに、第二原発のほうが近い場所だ。
帰りは福島を離れる際、放射能チェックをされたそうで、問題なしということで、埼玉にトンボ帰りできたそうだ。

第一原発から離れているとはいえ、20km圏内である。

すごい。

2011年3月25日金曜日

3月25日の新町田市役所の様子&歯石処理ラスト

地震後初めて歯医者に行った。
処置中に揺れたらやだな、とどうしても思ってしまう。
今日行ったのは、「そんな事でビビっていたら、一生行けない。」と思ったからである。


歩いて3分である。

虫歯も何もかも処理し終えて、今は歯石を取ってもらっている。
歯石を取るってとっても簡単なことだと思っていたが、とんでもない誤解である。
例の、キュイーンというやつで歯の表面を磨くのは全体の1/100位のことなのである。
実際は、歯と歯茎の間の歯石を取るのである。
これ、機械でなく手で取るしかない。
麻酔なんかかけずに、がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりと取っていくのである。
一回目:キュイーンと歯の表面
二回目:上の歯の裏側
三回目:これが今日、下の葉の裏側
である。

口の中は血だらけである。
ちなみに、歯石が取れると、歯茎が引き締まり、歯と歯茎の間が少し空く、これが正しい状態なのだそうだ。
子供ならそんなことはないが、大人で、歯と歯の間がきっちりしている人は100%歯石びっしりで歯茎が腫れている。
なんたって、チッコイ鏡で実際に自分の歯を見せられて説明されたので、(震え上がりながらも)納得感100%である。


歯医者に行く途中で撮った新町田市役所の建設の様子である。

柱の隙間から何人もの人の姿が見えた。
事故に合わない様にお気をつけください。


2011年3月24日木曜日

3月24日の越谷市老人福祉センター避難所の行事

先ほど妻が避難所の従姉妹に電話をかけ、話を聞いた。

何でも市民団体の方が訪問し、避難所に篭ってばかりだと疲れてしまうからと避難している方に声をかけ野鳥の森公園まで散歩に連れていってくれたそうだ。
ゆっくり歩いて2時間くらいかかるそうだが、そういう疲れの方がいい。

いい話だ。



夕べから我が家に泊まっている従姉妹の次男は同い年の僕の次男と今日はづっとお出かけしていた。
自転車でグランベリーモールに行ったり、町田で服を買ったり、近所の公園でバスケットをしたりしてきたらしい。
明日はまた避難所に戻るそうだ。
また来て欲しい。

3月24日の新町田市役所の様子


24日朝の様子である。
余震は続くが、クレーンも立ち上がっており、カンコンカンコン工事は進む。
工事現場の方々は、くれぐれも気をつけて欲しい。

2011年3月23日水曜日

18歳の視点・大震災と避難

妻の大熊町の従姉妹の次男が家に来た。

越谷の避難所から妻が拉致してきた。

僕の次男と同い年だし、久しぶりに「大勢いないところで・ごはんを食べて・寝る」環境を提供するわけだ。
途中、妻と僕の次男と従姉妹の次男の3人で国道16号線のココスで夕食をとったそうだが、「暖かい白いご飯がおいしい。」とシミジミ言ったそうだ。
ふむ。

その彼から、地震直後とそれからを聞いた。



大熊町の、福島第一原発から数キロの所にある自宅の2階にいたそうで、ドーンと言う感じで家が揺れて、部屋の真中の柱がドーンとずれたそうだ。
本棚を押さえていたそうだが、「これはあかん」と思い、階下に降りると母(妻の従姉妹)が、おしりが全部出た状態で頭だけ炬燵に突っ込んでいたそうだ。


すぐに庭に出て、しばらくそこにいたそうだ。
ちなみにこの従姉妹の家は、ものすごくでかく、庭はものすごく広い。
庭に出るとき、身体がふらつき、インターフォンを押してしまい、「ピンポーン!」となり、母(妻の従姉妹)が、「誰か来たどぉ!」と騒いでいたそうだ。
そこから歩いて(坂を下る)15分ほどの所に大熊の海があり、毎年(一人で)遊びに行くのだが、その周りの田んぼから公民館から何から何まで水浸しだそうだ。
庭にいる間、つまり津波が来ていた時間も津波の音は聞こえなかったそうだ。



このままではいかんということで、毛布などを車に突っ込み、大通りは渋滞だったので、裏道をスポーツセンターに(従姉妹が)走らせたそうだ。
裏道は、コンクリートの道が、陥没+隆起+歩道前崩れ状態で、まるでジェットコースターに乗っているようなスリルだったそうだ。
※ハッキリと「怖かった」と言った。

スポーツセンターもいっぱいで、さらにその奥の中学校に行ったそうだ。
たまたま卒業式で、椅子がいっぱい倒れていたそうだ。
そこに一晩泊まったそうだが、停電で真っ暗だったそうだ。
ただし、パンなどの食料はかなり豊富にあったそうだ。
翌日、田村市の常磐に行くぞ!(というのは後で分かったそうだが)ということで、バスが10台くらい来て、それに乗り込んで移動したそうだ。
※もう、原発は最初の爆発があったはずだ。



それから、親戚が徐々に「誰それはどこそこにいる!」と情報交換し、4-5日後、川口の親戚の家に皆で移動したそうだ。
それから、また情報を仕入れて、越谷に避難所があるということで皆で移動したそうだ。

で、僕達が行ってきたわけである。



面白おかしく話してくれたが、絶対怖かったに違いないし、疲れているに違いない。
今の避難所は夜10:00になると消灯で、(意外なことに)皆一斉に寝てしまうそうだ。
皆疲れているに違いない。
避難所は、老人福祉センターなので、大きな風呂もあり、食料も豊富だそうだが、そういうことではないのだ。

今日は僕の次男の部屋で寝てもらうのだが、「『家』の中で、狭いところに寝れるのが嬉しい」と言っていた。

むむむ。

今日の「被災者にできること」

今日は自分は仕事だったが、妻が自宅待機だったので時間があるということで、先日ご紹介した越谷市の親戚が避難している避難所に車で次男と共に向かった。

疲れが出始めているはずの避難所暮らしの方の所に行って、共に笑い、共にお茶を飲み、共に語り勇気づけるのも立派な「被災者にできること」であると思う。

今日は、次男と仲の良い従姉妹の子供(次男と同い年)を連れてきてうちに泊まらせてあげるそうだ。

素晴らしい!
早く来い!

2011年3月22日火曜日

去年の3月11日

ふと、去年の3月11日って何をやってたろうと思い、自分のブログを見る。

こんなことを書いている。

よく食べ、よく働き、よく移動している。
※町田・新宿・恵比寿・品川・川崎・東神奈川・町田である。

両親は車まで買っている。

ちなみに今年はあの地震でブログどころではなかった。

来年はどうなっているだろうか。

Hub機能フル回転

今回の震災は、東北。
妻の親戚は、自分が生まれ育った福島の楢葉町を中心に、浪江町・広野町・富岡町・大熊町等々大変広い。
で、実は僕の父は福島の川内村の出身である。
親戚は川内村・双葉町・いわきなど福島全域に渡る。
つまり、今回の原発関連で避難しているほぼ全域に渡るのだ。
当然ながら、親戚は、関東圏にもたくさんいる。



このブログでも紹介したが、妻に情報が集まる。
無論、妻からも発信する。
東京やその近辺にいる親戚たちに連絡し、親戚たちからの連絡をうける。
Hub機能フル回転である。

今のところ亡くなった人はいないようだ(まだ分からないけど)。



3月中は、このような情報収集に終始しつつ、避難女にいる親戚たちを元気づける。
※っていうか、ここ(相模原)に来てほしいな。

問題はその後だ。
住居をどうするか。
これは情報提供しかない。

帰る家がなくなった時、どうするか(どこに住むのか・子供教育はどうするのか・仕事はどうするのかなど)は当事者しか決めることができない。
我々はこれをサポートできるだけである。

ちなみに、妻も父も(妻の父も楢葉町の出身である)地震の被害者であると言えると思う。
っていうか、日本中が被害者だ。

「かならず復興する」ので、頑張りたい。

っていうか、まだ今回の自然災害は終っていないと思う。
余震はまだまだ続くようだ。
心して日々を過ごしたい。



ところで、昨日、妻と買い物に行って、レタスを「念のため」と言って二つ買おうとしたら、怒られた。
「買いだめするな!、他の人のために一つにしておけ!」と(文言そのままではないが)言われた。
たしかに。

2011年3月21日月曜日

避難所

昨日、福島の原発の影響で避難していた親戚の方々がいる避難所に行ってきた。
場所は、埼玉県の越谷である。
正確には、越谷市老人福祉センターである。

町田から小田急に乗る。
町田駅も節電のため、かなり暗い。
久しぶりの電車(電車内も節電のため電気は基本的に消している)だ。
途中駅、成城学園前に着いた時、次男の事を想う。
「ここから町田まで歩いたのか。。。」
本当に頼もしく思う。
代々木上原で千代田線に乗り換え、北千住まで行く。
北千住駅で降り、昼食をとる。
避難所でお昼を食べるわけにはいかないので。
北千住は初めて降りたが、マルイはあるし、成城石井はあるし、勿論スタバもあるし、非常に洒落た町であった。
ちなみに、お昼は、マルイの9階にある麺屋空海である。
味はまあまあであるが、830円は高いと思う。




食後、駅に向かうと、今避難所にいる妻の従姉妹の長男が同じ場所に向かっていて、しかも北千住の駅にいると連絡が入る。
駅で再開、久しぶりだ。
彼は、茨城に就職したのだ。
妻と三人で、北千住から東武伊勢崎線に乗り換え、北越谷に行く。
北越谷で降りバス停に向かう。
駅には、北越谷にある文教大学の学生が義援金カンパで頑張っていた。
妻の従姉妹の長男は、非常にさりげなく小銭をカンパしていた。
カッコイイ!

バスで15分ほど、結構な距離だ。
ようやく到着する。
大変広い場所と立派な建物が眼に入る。
被災者の方が溢れかえっているのかと思っていたのだが、誰もいないのではないかと勘違いするほど、しんとしている。

入り口にこんなものがある。
「現実なんだ。」と身が引き締まる。


中に入ると、非常に広く、静かだ。
小さな子供たちがビリヤードで遊んでいる。

受付があったので、訊ねると、面会ということで被災者の名前を確認される。
係の方は4-5名いらっしゃったが、みな穏やかな表情で、複数被災者がここにいるんです、妻は親戚で原発のある福島の楢葉町の出身なんです、この若者はここに被災している人の長男なんです、というと、一様に優しい言葉をかけてくれる。
ちなみに、現在36名の方が、ここにいるとのことだ。
家が無くなった方もいるし、家はあるけれど原発の問題が解決しないと帰れない方々もいる。


朝食だけは出るそうだが、お昼と夜は自分たちで摂るそうで、全員昼食に外に出ていた。
※自炊もできるそうだが、そもそもお釜も茶碗も箸もない。
しばらく待つと、全員帰ってきた。

元気そうだ。

この避難所にいる親戚は、全部で8人。
楢葉町、富岡町、大熊町に住んでいた。
従姉妹の旦那が先に来ていて、これも久しぶりに会う。
この人は、原発で働いている人で今回たまたま東京に来ていたのだ。

途中、妻の父まで面会に来た。
総勢13名で色々と話す。
元々笑いの絶えない一族だが、現状を吹き飛ばすようにみなで笑う。


避難所のトイレはとても綺麗だ。


中は本当に広い。


外観はこんな感じ。



そばには川も流れる。
避難している妻の叔父が食べられる野草があるので取ってきて味噌をつけて食べるつもりだといってた。
すごい。


春を思わせるように木蓮も咲いている。




避難所の中はこんな感じでかなり広い。
ここに布団を引いて皆で寝るわけだ。


布団は既に山積みである。


暗くなってきたので、帰ることにする。
バス停で最後の別れである。



うちの親戚に限らず避難されている方たちは、「今」は元気だが、戻る場所が当面ない。
今後のことを考えると居ても立ってもいられないはずだ。
数週間もすると色々と先が見えてきそうだが、なんとか元気で頑張って欲しい。

幸い我が家は特に損傷もないし、神奈川だし、いつ来てもいいように言ってきた。
本当に来て欲しい。


妻の従姉妹の旦那二人は福島の原発で働いている。
二人から、「地震発生時の現実」や「48時間ぶっ通しで頑張った事実」や「本当の原発の危険度」や「政府の失策」など色々と「事実」を知る。
ここには書けないような様々な「現実」を知る。

今、自分にできることはなんだろうと考える。。。。

2011年3月19日土曜日

ちょっとでも

kizuna311

拡散します、「みんなで分け合えば、できること。」

飼猫ゴンが睡眠薬を飲む

世を儚んで睡眠薬を猫が服用したわけではない。

実家に預けていたゴンが、夜になって父の睡眠薬を一錠飲み込んでしまった。
夕べは大騒ぎである。
妻と長男がゴンを家に連れてくる。
※長男に免許をとっておいてもらってよかった。

ゴンはふらふらして、興奮していたが、何とか一晩が過ぎる。
今日になって、少し落ち着いたが、オガタ動物病院に電話し、症状を話し指示を仰ぐ。
超懇切丁寧に説明され、安心する。
※実験データの何十分の一しか飲んでいないし、寝ることができるようなら寝させてあげてくださいとのこと、安心である。

まだ、イマイチ通常のゴンではないが、そもそも「7kg近くある猫」という時点で既に普通でない。
我々よりは早く亡くなってしまうだろうが、もう少し元気でいて欲しい。

ちなみに写真は、超超アップのゴンの写真である。
トトロぢゃねーし。

福島県双葉郡双葉町の住民が埼玉スーパーアリーナへ

福島県双葉郡双葉町の全住民が埼玉スーパーアリーナを避難所として集結できたそうだ。
ありがたい事である。

双葉町にも多数の知人・親戚がいる。
※父が「双葉高校」の卒業生である。

住民は全国に散らばって避難しているようだが、アリーナに向かった知人・親戚もいることだろう。

頑張って欲しい。

避難している親戚(楢葉町・大熊町・富岡町等)を訪ねる

明日は、埼玉の越谷の避難所に移動した親戚を訪問する。

報道でしか知らない生の現場(被災地ではありませんが)に行き、できることを探してくる。

詳細報告は明日。

福島県民の一つの現実

親戚たちが県内の避難所を離れて、川口の妻の親戚宅に来たことはブログに書いた。

その後妻が確認したところによると、親戚たちは越谷にある福祉センターで被災者を受け入れてくれるので、行くことにしたのだそうだ。
お風呂もあり、福島県よりも快適であるらしい。
ありがたい事だ。

しかし、どう考えても、今しばらくは川口の親戚宅(もしくは、相模原の我が家)の方が、快適であると思うのだが、事情があった。
一旦、親戚宅などに身を寄せると、仮設住宅とかの入居などになった時に順番が後回しにされるらしいのだ。
だからわざわざ親戚宅から避難所に戻ることにしたとのことだ。


つらい現実だ。



何でもしたいと思う。

妻が、訪問することになった。
詳細また報告したい。

2011年3月16日水曜日

今日やり残したことはないかな 

明日はもっと色んなことができるといいな。

被災地で震えている方々に想いを伝えたいな。

こっちでできること、一所懸命仕事して、生きること、生き続けること、節電、(あと今は)募金、かな。

Hub

とは、ネットワークなどにおいて各ノードに接続された複数のケーブルを集約するための装置であす。

昨日もブログに書いたように、妻は楢葉町の出身である。
親戚は、楢葉町、広野町、富岡町、川内村、浪江町、相馬などに散らばっている。
福島原発の半径30kmにすっぽり入る。
知りうる限りの親戚の無事は確認したが、それぞれの親戚同士、また親戚の親兄弟姉妹がうまく連絡が取れなくなっている。

現在妻がHubになって、それぞれの連絡先を知らせまくっている。



妻はどうしても現地に行きたいようであるが、今は無理である。
妻は気持ちをグッと押さえて、今日も仕事に向かった。
停電のところも多い中、何とか今日も無事に帰ってきた。
温かい風呂と食事で出迎えた。



僕は友人の仕事を手伝いに相模原の街に出た。
街には車も人も少なく、お店はガラガラだ。
本当にトイレットペーパーや電池や懐中電灯がない。
発電機もない。
メーカーの方は24時間体勢で不足分を補うべく動き始めたそうだ。

暴動も争いもなく整然と並ぶ(灯油・水・食料など)東北地方の人(に限らないが)の姿を見ると、日本人としての誇りを感じる。
買い占めは自省したい。

明日も自分でできる何かをしようと思う。
※仕事もその一つだ。

おちまさと氏のブログより 不謹慎とは何か

おちまさと氏のブログにこんなのがあった。

読んで欲しい。

『不謹慎』とは何か。

テーマ:ブログ
今日
今までとは違う
新たな月曜日が
始まった。

先週の金曜の夜までと
どうしても価値観は
多少の変化を
齎してしまった
新たな月曜日だ。

朝起きると
まず多くの
リスケ(スケジュール変更)の
メールと電話が
続いた。

やはり
計画停電に伴う
電車通勤などへの影響における
各社の自宅待機などの指示に
よるものが多かった。

先日も書いたが

我々は
生きて行かなければならない。

生き抜いて行かなければならない。

僕らの国には突然
不幸な出来事があった。

しかし
時は進んで行く。

仕事ができる健康と
仕事ができる環境が
(学生ならば学業か)
運にめぐまれ整っている
我々は
その仕事ができる幸せを
今まで以上に噛みしめながら
働いて行かなければ
ならない。

それが
日本の未来の為にも
被災地の復興の為にも
繋がるはずであると
信じて。

しかし
福島第一原発問題において
使用できる電力は激減し
交通手段の環境が
悪化しているので
多くの仕事が
潤滑に回らなくなっているのも
現実である。

だけども
働ける人間は働かなければ
前進できない。

ただ
何となく
その空気を
遮っているものがある。

それは
一体何なのだろうか。

例えば
現在あらゆる
楽しいことがコンセプトの
ライブやイベントは
数多くが中止を余儀なく
されている。

「この時期に何を考えてるんだ」

ということが最大の理由か。

もっと簡単に言えば

『不謹慎』

という三文字が
文鎮のように乗っかっている
気がする。

流石にそれは
この時期に『不謹慎』だ

と思う事もある。

しかし
この『不謹慎』のボーダーは
誰にもわからない。

『不謹慎』とは
慎みがないという事だ。

慎みとは
控え目に振る舞うこと。

果たして
どこまでが『不謹慎』なのだろうか。

東京でバリバリ仕事をしていること

費用対効果があるので
車で移動すること

御飯を食べること

こうしてPCでブログを書くこと

など何をするにおいても
何か目には見えない

『不謹慎の地雷』

を探り探りしながらの
空気感が
この新たな月曜日には
まん延しているような気がした。

もちろん
先週の金曜日の朝のように
無条件には動けない。

しかし
我々は
動かなければならない。

だけども
動けばそれは
『不謹慎の地雷』
を踏みかねないと
みんなで様子を見て
先に誰かに毒見をしてもらってから
追随する感じもあるかもしれない。

これだけ
品格も美徳も美意識も
失って来た日本人は
皮肉にも
『不謹慎』レーダーだけは
とんでもなく敏感にできている。

誤解を恐れず書くならば

娯楽も癒しの一つである。

これだけ
困窮した現状で
テレビでは
惨憺たる映像を見続けて
被災地ではない場所でも
精神的にはかなりきついことも
あるかもしれない。

例えば美容室に行ったら
節電節水にならないから
それは『不謹慎』なのだろうか。

でも美容室からすれば
それこそが仕事であり
こんな時でも前進せねばと
やる気を奮い立たせて
現場に行ったにも関わらず
そこに来ることが
『不謹慎』と言われたら
そんなに悲しいことはない。

そういう時に
僕はやったことがないが
パチンコをしていたら
どうなのだろう。

節電じゃないから
『不謹慎』なのか。

でも
パチンコ業界側からすれば
突然お客さんが来なくなることは
とても困ることとなる。

僕は毎日ジムに行くことが
歯磨きの様な日常なのだが
ランニングマシンは節電に
ならないので
これも『不謹慎』になるのだろうか。
こちらも働いている人がいるが
道を走れと言われれば
それも確かだ。

このうように
『不謹慎』にはハッキリとした
境界線がないが
どこに境界線を置こうと
その境界線の向こうには
必ず労働者がいることを
忘れてはならないような
気がする。

日本は未曾有の経済危機である。

そこに未曾有の大地震が訪れた。

ただでさえ
逼迫した日本経済は
少子高齢化でそれに拍車をかけ
破綻まっしぐらであり
しかも実際に働ける
生産人口が激減する中

このまま
疲弊していったら
明日はない。

これは
史上最強最悪の試練である。

関係ないが
大地震には
世界各国からハイスピードで
救助隊が続々と来るが
経済では全く来ないのは
気のせいか。

そんな中
労働力や働く精神力を
落としてしまっては
本当に株式会社日本は
倒産してしまう。

明日からも
多分
『不謹慎』のボーダーを
探り探り
まさに空気を読みながら
その『不謹慎』の領域を
少しずつ狭めて行くはずだ。

阪神大震災から16年。
まさにこの状況から始まり
年々状況が変わって行き

この間の金曜日までは
『不謹慎』ではなかった
100のことの内
98までは『不謹慎』の領域に
入っている気がする。

それはもちろん
それで正しい。

しかし
最初にも書いたように
我々
働ける人間はゴリゴリ
働いて生産していかなければ
ならないのも事実。

正直
僕もこのブログを
悩みながら書いている。

なぜなら
誰もこの
『不謹慎』のボーダーを
明言してくれないからだ。

菅さんでもいい
どなたかが
ある程度の指針を
示して欲しい。

この『不謹慎』の領域は
あらゆる意味で意外と大きな
経済逆効果を生むこととなる。

慎まなければならない。

全ては控えめにしなければ
ならない。

本当にそう思う。

しかし
停滞はできない。

働ける人間は
トンネルの先を掘り続けなければ
ならない。

難しいリーダーシップが
問われる。

おちまさと

逆に
『不謹慎』とハッキリ言えるものは

例えば

阪神大震災時に本当にあったらしいが
興奮して援助に来た素人が
結果足手まといになり
しかも現場の少量の食料を
食べてしまうということが
たくさんあったらしいが

これこそ
『不謹慎』

また
今東京のスーパーや
コンビニに行けば
様々な食料や
トイレットペーパーなどの
日用品や
懐中電灯や電池が
売り切れとなっている。

これは
福島第一原発の一号機が
爆発してからの
いたずらに恐怖を煽る
チェーンメールなどで
買い占めろ!ということが
流れたからという理由が
殆どだという気がする。

外出禁止令が出る
西へ逃げろと偉い人から聞いた

などの三流SF映画的な話。

そんな中
本当に電池がなければ
病気でどうしても
使わなければならない
という人はどうするのか。

この間も書いたが
救急車が近くに来れば
ドライバーは道を譲る。

今は救急車の前に
我先にと渋滞を作ることと
同じことが起きている。

これは

『不謹慎』

である。

一方ヘリでの視察で
居眠りをした議員がいたと
まさに『不謹慎』だ!
とかいうニュースがあったが
それは『不謹慎』か。

多分今回の件で
寝不足だったのだろう。

そこにヘリの揺れじゃ
かばうつもりじゃないが
寝てしまうのもあるかもしれない
のではないか。

枝野官房長官だって
105時間ぶりに
やっと寝れたらしい。

また
自衛隊や原発処理の
現場で働く方々の
健康が心配です。

相模原市の計画停電情報(相模原市HPより)

今日・明日・明後日の相模原市の計画停電のグループを以下で確認することができます。
参照ください。
<http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/20128/020159.html>;

2011年3月15日火曜日

「万」という数について~被災者を想う~

昨日ブログで報告させてもらったように、「知りうる限りの親戚は無事」だった。



今日になり、最も世話になった富岡町の叔母が、(無事は知っていた、なぜなら見かけた人がいる情報が入っていたから)ようやく、どこにいるか分かり、どこに移動したかが分かった。

このような被害状況は全く分からないまま、叔母は川内村の川内小学校に避難、テレビもなく何の情報も入らず不安なまま4日間過ごし、兄弟の叔父が、叔母の子ども(妻の従姉妹)がいる場所(田村市常葉)まで連れて行って、涙の対面、その後、兄弟で移動しようと、川口の兄弟宅に避難できたそうだ。

妻の電話がつながり、「4日も風呂に入れなかったんだァぁ。いやいや、大変なことになったなぁ。」と言っていたそうだ。
涙である。

「知りうる限りの親戚」以外の知り合いは山のようにいるはずだ。
何とか生きていて欲しい。
頑張って欲しい。

。。。などと書いていたら、15日22時31分、強い地震だ!
次男が風呂から飛び出す。
妻が、毛布を身体に巻いて、家中の窓を開ける。
長男が、部屋を飛び出す。
。。。収まった。
むむむ。



落ち着いたので続ける。

と思ったら、また来た!

また、落ち着いた。

と思ったら、また来た!

また、落ち着いた。
むむむ。

着替えた。
iPhone4と財布を身につけた。
今日はジーンズのまま寝るしかない。



小学校3年生の時、クラスの行事で、「ノートに0から10000まで書いてみよう!」というのがあった。
クラスで完全到達したのは4名だったと記憶している。
そのうちの1名が自分である。
泣きながら、6789、6790、6791などと書いた記憶がある。
10000ってすごい大変な数だ。

今日現在、地震による避難者が45万人とのことだ。
ものすごい数だ。
これだけの数の方が、今、寒さと恐怖に震えているのかと思うといたたまれない。



妻は、楢葉町の出身である。

誰にともなく、「帰りたい。。。」と呟いていた。

この女と、この女が産んでくれた子供を守ろうと強く思う。

2011年3月14日月曜日

福島の親戚は全員無事を確認したが

父が福島の川内村の生まれだ。
妻は、福島の楢葉町の生まれだ。
父の親戚も妻の親戚も、多くが川内村、楢葉町、大熊町、富岡町、広野町、郡山市、相馬、浪江などに集中している。
そう、本震・余震で度々登場する、福島の「浜通り」地区の町である。



今回の地震で、被害にあった全地区に相当することになる。

原発は楢葉にあるが、もう十年以上、毎年帰省しては原発のそばを通っていた。
今回の原発の事故で避難対象になっている20km圏内に、全親戚の95%は入っているはずだ。

まず結果から。

知りうる限りの親戚は全員無事であった。
よかった。
まだ無事の確認が出来ていない方も多数おられることは重々知った上であるが、よかった。
勿論、「何もなく無事」ではなく、ほぼ全員が避難所生活である。

大熊町の(妻の)従姉妹は、何が何だか分からないうちにバスに乗せられ避難所に連れてこられたそうだ。
※行き先を告げられないらしい。
富岡の叔母は、別の親戚がどこかの避難所で見た、との情報だけである。
富岡町の駅は津波で「無くなった」そうだ。

最も心配だったのは、福島第一原発で最初の爆発があったときに現場にいたはずの(妻の)従姉妹の旦那の安否だった。
昨日分かったのだが、爆発前に、間一髪、現場から離れていたそうだ。
本人は、家にもどると誰もいないし、家族は避難所にいるらしいし、で少しパニックになったそうだ。
※今は、家族で避難所にいる。

全員、津波の被害にあったわけではなくむしろ原発被害である。
元居た自分の家に帰れる保証は全くない。
「絶対安全」の謳い文句の元、「住んでいた」のであるから、その心情を察するに余りある。

自分に何ができるのか分からないが、できるだけのことはする。
もう、決めたのである。



これは、今年の夏の大熊町の海である。
もう、見ることはできないのだろうか。




3月11日と12日と14日の町田市役所の様子

3月11日、地震発生前の新町田市役所である。


3月12日の様子である。
でかいクレーンが寝ている。
倒れたわけではないだろうが、寝ている。
ちなみに、工事はしていなかった。


3月14日の様子である。
少し様子が変わっているように見える。
この最中、工事が進んだのか。

3月15日(火)相模原市南区鵜野森の計画停電

第4グループ 9:20-13:00 です。

※開始・終了時間は前後することがあるそうです。
※この時間以外でも、需給状況によって停電することがあるそうです。


必要のない電気はまめに消しましょう。頑張りましょう。

3月14日(月)相模原市南区鵜野森の計画停電

第4グループ 13:50-17:30 です。

※開始・終了時間は前後することがあるそうです。
※この時間以外でも、需給状況によって停電することがあるそうです。

2011年3月13日日曜日

次男の生還

一昨日の地震の時、私と長男は家におり、妻は仕事でコンビニにいて、おでんのつゆがこぼれないように押さえていて、次男は小田急線に乗っていて成城学園前手前で電車に閉じ込められ、母はクリエイトで買い物中、父は家にいた。

問題は次男で、成城学園前で降り、電車は動かないし、タクシーは信じられないくらいの行列だし、途方にくれたそうだ。
で、まず最初に今後の長期戦を考え、コンビニに飛び込み、水やらジュースやらパンやらの食べ物、(痔瘻の手術からまだ数週間なので)ガーゼなどを買い込んだそうだ。
ナイスな判断である。

電話が通じたので、待ってもいいからタクシーに乗って帰ってくるように指示したが、「いや、歩く」と言って、歩き始めた。

1時間に一度くらい連絡できたが、停電もあり、暗い中、あまり歩いている人もない初めて歩く道をひたすら歩いたそうだ。
歩き始めて5時間後位に、自宅に到着した。
思わずグッと抱きしめた。



怖いものを知らない18歳だからこそできる技だろう。
勿論「歩いて帰る」ことには、大変なリスクが伴うし、危険も一杯だったはずだ。
「明るかった」ことと、「新宿からではなかったこと」と、「小田急線の横の道を歩けたこと」と、ボランティアで交通整理とかをしてくださっていた方たちがとても親切だったことなどが、全ていい方に作用した結果であろうと思う。

次男をあと押してしてくれた全てのものと人に感謝したい。

被災されている全ての皆様の無事をお祈りいたします。

内田樹氏の最新ブログ

敬愛する内田樹氏の最新ブログである。

※内田氏は自身のブログの内容を、どのような形で利用しても良いと表明されています。

3月13日の全文を掲載させていただきます。


未曾有の災害のときに

3月13日
東日本巨大地震から三日目。
朝刊の見出しは「福島原発で炉心溶融の恐れ」と「南三陸町で1万人行方不明」。
16年前の大震災を超える規模の国家的災厄となった。
これからどうするのか。
このような場合に「安全なところにいるもの」の基本的なふるまいかたについて自戒をこめて確認しておきたい。
(1)寛容
茂木健一郎さんも今朝のツイッターで書いていたけれど、こういう状況のときに「否定的なことば」を発することは抑制すべきだと思う。
いまはオールジャパンで被災者の救援と、被災地の復興にあたるべきときであり、他責的なことばづかいで行政や当局者の責任を問い詰めたり、無能力をなじったりすることは控えるべきだ。彼らは今もこれからもその公的立場上、救援活動と復興活動の主体とならなければならない。不眠不休の激務にあたっている人々は物心両面での支援を必要としている。モラルサポートを惜しむべきときではない。
「安全なところにいる人間」と「現地で苦しんでいる人間」を差別化して、「苦しんでいる人間」を代表するような言葉づかいで「安全なところにいる人間」をなじる人間がいる。
そういうしかたで自分自身の個人的な不満や攻撃性をリリースすることは、被災者の苦しみを自己利益のために利用していることに他ならない。
自制して欲しい。
(2)臨機応変
平時のルールと、非常時のルールは変わって当然である。
地震の直後から各地では個別的判断で、さまざまな施設やサービスが被災者に無料で提供されたし、いまも次々と申し出が続いている。
こういうときこそルールの「弾力的運用」ということに配慮したい。
16年前の震災のとき、雑貨屋で私がガソリンストーブ用の燃料を買い求めてレジに立っていたとき、「屋根が落ちて雨漏りがする」というのでブルーシートを買いに来た女性がいた。店員は私の燃料代は定価で徴収したが、彼女には無料でブルーシートを手渡し「困ったときはお互いさま」と言った。
彼のふるまいは「臨機応変」のすぐれた実例だろうと思う。
(3)専門家への委託
オールジャパンでの支援というのは、ここに「政治イデオロギー」も「市場原理」も関与すべきではない、ということである。
国民国家という共同体が維持されるために必要な根源的な資源のことを「社会的共通資本」と呼ぶということは、これまでもここで繰り返し書いてきた。
森林や湖沼や海洋や土質といった自然資源、上下水道や通信や道路や鉄道といった社会的インフラ、あるいは司法や医療や教育といった制度資本については、管理運営を専門的知見に基づいて統御できる専門家に「委託」すべきであり、これを政治的理念の実現や市場での取引の具に供してはならないという考え方のことである。
災害への対応は何よりも専門家に委託すべきことがらであり、いかなる「政治的正しさ」とも取引上の利得ともかかわりを持つべきではない。
私たちは私たちが委託した専門家の指示に従って、整然とふるまうべきだろう。
以上三点、「寛容」、「臨機応変」、「専門家への委託」を、被災の現場から遠く離れているものとして心がけたいと思っている。
これが、被災者に対して確実かつすみやかな支援が届くために有用かつ必須のことと私は信じている。
かつて被災者であったときに私はそう感じた。
そのことをそのままに記すのである。

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