2012年6月10日日曜日

2012年6月9日(土)福島県警戒区域一時帰宅報告

昨日、福島県の楢葉町に行ってきた。
警戒避難区域内に入ってきた。
全住民の「住んでいない」地域をぐるりと巡ってきた。
※「人が住んでいない町」って不気味だ。。。。

親戚やら、妻の実家やら、お墓やら、(福島にもあった)地震や津波の爪痕やらを見てきた。
お墓は、(妻の母の墓石も)倒れていた。
古いお墓から先に倒れていた。。。。
人の力では起こせない。。。。


楢葉町は、現在、原発の事故の影響で全住民が入ることができず、避難生活を(どこかで)送っている。今日の新聞(ウチは、朝日)に、「避難区域にいつ戻れるか」が出ていたけど、楢葉町の「な」の字もなかったな。。。

僕の妻の実家が楢葉町だ。妻の生まれも楢葉町(育ちは浪江)、妻の父も。
妻(と妻の父)の血縁は全て、このあたり(楢葉・大熊・富岡・広野・浪江などなど)に住んでいた。

ちなみに僕の父は川内の出身。
親戚は、川内、双葉、富岡など主に、「浜通り」に住んでいた。
全親戚、避難中である。
※広野と川内は、一部、戻っている。

なお、、僕は東京の人なので、「外様」である。


福島の人って、我慢強いというか、底抜けにお人よしというか、みんな明るく、(少なくとも表面上は)楽しく振舞っている。


福島のあの原発のおかげで楽しい都会生活を満喫していた僕は、この事故の犠牲者達(限定して申し訳ないけど、親戚一同)をどうしていいのか、正直分からない。

できることは、「できるだけお土産持って、できるだけ頻繁に行って、話して、一緒にご飯食べて、(全国の人が、放射能がついているからと受け取らない、実は線量ゼロの)地元生産物を沢山お土産に貰って、無事に帰って、それを全部食べて、また、お土産持って、行く」くらいである。

で、昨日は、楢葉町の一時帰宅に当選したので、行ってきて、帰りに、広野の親戚宅にも寄ってきたのだ。

その報告。


朝、4:00起きで、相模原を出発、妻の父を拾い、一路福島へ。
雨が辛かった。
しとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしとしと降る。

人は、これだけ科学と文明が進んでいるのに、天気を自由にコントロールできていない。
「できない」のではなく「やってはいけない」のだ、とかどーでもいいから、コントロールできるように頑張って欲しい。

「こっから先に入ったら、射殺すっかんな」な、Jビレッジ前を通過(許可証を車の前に置いてあるのでOKなのだ)し、道の駅に入る。
楢葉町の一時帰宅者の車が十数台並ぶ。
道の駅の駐車場に一台一台、導き入れ、防護服やら、線量計やら、万一のためにトランシーバーやらを渡される。
で、出発。
どこに行ってもOKだ。

ちなみに、道の駅にいた人の多さにびっくり。
100人以上はいただろう。
全員、一時帰宅の車が入ってくると、深々と(おでこが膝に付くくらい)お辞儀して、ものすごく丁寧に誘導・手渡し・話をしてくれる。
東電やら、国の人やら、地元の「公」の人やらが参加しているらしい。
頭をどれほど下げられても、「自分の家に帰れない」人にとってみれば、腹立たしいだけなのだろう。
僕はそういう意味では、「直接の被害者ではない」ので、少しだけ、客観的に見ることができる。


まず、妻の実家近くの親戚宅に行った。
車中で、防護服を着る。

後で、判明するが、楢葉は線量ゼロなので、こんな防護は必要なかったのだ。




この景色。
田圃である。
人の手が全く入らないで、1年以上経つと、こんなふうになってしまう。
これは、妻の父が絶句していた。





こちら、線量計である。
警戒避難区域を移動中、ずっと身に着けていたが、常に100%線量ゼロであった。


親戚宅の塀である。
お分かりになるだろうか。
実はこの塀、「立って」いたのだ。
地震で、左側に、全部倒れている。。。


 ▼

親戚宅を後にし、海側に向かう。
こちらは、地震に加え、津波に全部持っていかれてしまっていて、(原発事故のため)人の手が入っていないので、無法状態である。


下の写真は、妻方の親戚のものすごく近しい友人の家である。
記録のために敢えて、残す。
地震+津波で、こうなった。

家々の震災被害の写真をブログなどに載せるのはNG(そもそも写真を撮る行為はNG)と言われるらしい。
もし、載せるなら、「自己責任」だそうだ。
「見たくないかもしれない、崩れた自分の家を見せられる人の気持ちを考えろ!」だそうだ。
そうかな?
自己責任で、結構。僕は、載せることに決めた。

こういうことを「記録しておく」事の方に意味があると考えるから。
事故の記録を(被害者感情のために)公開するな、なんて、「こういうことがあったということを残されては困る」という、その家の方以外の「公」の方の都合の方が大きいんじゃないかと考えるから。



常磐線も走っていないので、線路はもはや使いものにならない。



木戸駅である。





道が随所で陥没していて、勿論整備も入っていないので、中々あちこちは回れない。
実家に行く。
その前に、(妻の)先祖代々のお墓を見に行く。
豊かに流れる、木戸川だ。



お墓のあるところに行く途中のがけ崩れの様子。
ぎりぎり、通れる。


お墓は荒れていた。
写真の公開はできないが、ひどいものだ。
出来るだけのことをして、お線香を手向ける。
※しかし、やはり、雨にまいった。


妻の実家(妻の父の家)と本家に向かう。
ちょっと、ノーコメントで写真だけ。













辞して、妻の母の墓のある、天神山を昇る。
途中の崩れた、小屋。
そのまま、1年以上、放置である。



お墓の様子は載せられないが、こちらもひどい。
できるだけのことをして、辞す。


数時間、全て見て、道の駅に戻る。
防護服を返し、線量を計られ(ゼロだった)、100名近くの深い深いお辞儀を受け、警戒区域を出る。

そのまま、広野の親戚宅に行く。

こちらも、当初、避難していたが、「戻ってよし」で、戻ってきた口だ。
菊の栽培を中心に、各種野菜を育て、販売していた(今は市場に出せない)家で、ものすごい広さとでかさである。
お昼をごちそうになり、お土産も沢山貰って、カワイイおばあちゃんとたっぷり触れ合って、帰路につく。



















しかし、雨には参った。
次回に入れる時はぜひ、晴れていてほしい。

ちなみに、三郷を通過してから、悲惨な事故を4件見た。

一つは接触直後、残りは「大破」である。
僕の父が言っていたが、「スピードを出さなければ事故は起こらない」は本当だと思う。
みんな飛ばしすぎだよ。

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