2011年3月23日水曜日

18歳の視点・大震災と避難

妻の大熊町の従姉妹の次男が家に来た。

越谷の避難所から妻が拉致してきた。

僕の次男と同い年だし、久しぶりに「大勢いないところで・ごはんを食べて・寝る」環境を提供するわけだ。
途中、妻と僕の次男と従姉妹の次男の3人で国道16号線のココスで夕食をとったそうだが、「暖かい白いご飯がおいしい。」とシミジミ言ったそうだ。
ふむ。

その彼から、地震直後とそれからを聞いた。



大熊町の、福島第一原発から数キロの所にある自宅の2階にいたそうで、ドーンと言う感じで家が揺れて、部屋の真中の柱がドーンとずれたそうだ。
本棚を押さえていたそうだが、「これはあかん」と思い、階下に降りると母(妻の従姉妹)が、おしりが全部出た状態で頭だけ炬燵に突っ込んでいたそうだ。


すぐに庭に出て、しばらくそこにいたそうだ。
ちなみにこの従姉妹の家は、ものすごくでかく、庭はものすごく広い。
庭に出るとき、身体がふらつき、インターフォンを押してしまい、「ピンポーン!」となり、母(妻の従姉妹)が、「誰か来たどぉ!」と騒いでいたそうだ。
そこから歩いて(坂を下る)15分ほどの所に大熊の海があり、毎年(一人で)遊びに行くのだが、その周りの田んぼから公民館から何から何まで水浸しだそうだ。
庭にいる間、つまり津波が来ていた時間も津波の音は聞こえなかったそうだ。



このままではいかんということで、毛布などを車に突っ込み、大通りは渋滞だったので、裏道をスポーツセンターに(従姉妹が)走らせたそうだ。
裏道は、コンクリートの道が、陥没+隆起+歩道前崩れ状態で、まるでジェットコースターに乗っているようなスリルだったそうだ。
※ハッキリと「怖かった」と言った。

スポーツセンターもいっぱいで、さらにその奥の中学校に行ったそうだ。
たまたま卒業式で、椅子がいっぱい倒れていたそうだ。
そこに一晩泊まったそうだが、停電で真っ暗だったそうだ。
ただし、パンなどの食料はかなり豊富にあったそうだ。
翌日、田村市の常磐に行くぞ!(というのは後で分かったそうだが)ということで、バスが10台くらい来て、それに乗り込んで移動したそうだ。
※もう、原発は最初の爆発があったはずだ。



それから、親戚が徐々に「誰それはどこそこにいる!」と情報交換し、4-5日後、川口の親戚の家に皆で移動したそうだ。
それから、また情報を仕入れて、越谷に避難所があるということで皆で移動したそうだ。

で、僕達が行ってきたわけである。



面白おかしく話してくれたが、絶対怖かったに違いないし、疲れているに違いない。
今の避難所は夜10:00になると消灯で、(意外なことに)皆一斉に寝てしまうそうだ。
皆疲れているに違いない。
避難所は、老人福祉センターなので、大きな風呂もあり、食料も豊富だそうだが、そういうことではないのだ。

今日は僕の次男の部屋で寝てもらうのだが、「『家』の中で、狭いところに寝れるのが嬉しい」と言っていた。

むむむ。

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