2010年3月5日金曜日

嫌いな人がいないこと

淀川長治氏ではないが、「心の底から人間として嫌い」な人が「いない」ことに、最近気付いた。
「嫌いな人がいないってことか?」と問われると、それは違う。
その人を「自分としてはとうしても受け入れ難い。。。orz」と思っても、その人にはその人の歴史や苦しみや苦悩があるはずで、一概に「イヤ!」の一言で片付けてはいけないのではないかと思うようになってきた、というのが正確な言い回しかもしれない。
「心の底から人間として嫌い」な人がいないだけで、苦手、嫌い、大っ嫌い、生理的に無理、男性として嫌い、女性として嫌い、社会人として嫌い、同僚として嫌い、上司として嫌い、部下として嫌い、近所のコミュニティーの参加者として嫌いなどは山のようにいる。
例えば自分の勤務する会社で言えば、
Pさん・・・苦手、女性として嫌い
Kさん・・・大っ嫌い
Kさん・・・嫌い、生理的に無理、男性として嫌い
Rさん・・・社会人として嫌い
Tさん・・・苦手、社会人として嫌い
Kさん・・・社会人として嫌い
Mさん・・・男性として嫌い、社会人として嫌い
Fさん・・・大っ嫌い
Iさん・・・大っ嫌い、社会人として嫌い、男性として嫌い
Hさん・・・生理的に無理、女性として嫌い
Sさん・・・女性として嫌い
おぉ、いくらでもいる!
※会社の人もこのブログを読んでいるようなので、イニシャルにはある関数を挿まないと正確なイニシャルが分からないようにした。
無論、そんなことは微塵も見せない。
※大して怒ってもいないのに、ちょっと感情的になったように見せたり、おどけて見せたり、なかなか大変だ。
逆に理由もなく「好き」な人もいるわけだ。
その人とうまくいっていようがいまいが好きなのだ。
で、言いたいのは、心の底から「人間として」嫌いなことはない、ということだ。
それは、社会悪の人に対しても言える。
※「社会悪」。。。そんな言葉があるかどうか知らないけど。
具体的な例は示しにくいが、例えばモンスターペアレント。
報道とかを読むと、誰もが「名前を公開しろ!」「こういう奴がいるから!」とかになるようだが、「人間として嫌い」とかにはならない。
そうなるまでに、様々な事情や苦しみがあったはずである。
その見えない一人ひとりの背景や苦しみを思うと、一言で「嫌い」「死んでしまえ」とか思えない。
そういう想いを、「弱さ」に見えないように気をつけて生きていこうと思う。
子供にも伝えよう。

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